研究者コラム
モルディブ初のオリンピック選手から学んだこと
筑波大学体育系 助教
大林 太朗[体育史・スポーツ人類学]
もう10年以上も前のことになりますが、私がランニングのルーツに惹かれてギリシャのオリンピア・スパルタにあるペロポネソス大学(大学院)に留学した際、滞在先の学生寮でルームメイトとなったのがモルディブ出身のフセイン・ハリームさんでした。ダークな色のグラスに濃い目のひげを貯えたワイルドな風貌に第一印象こそ、何と申しますかビビりましたが、聞けば彼はなんと同国初のオリンピック代表選手であり、1988年ソウル大会と1992年バルセロナ大会のマラソン競技に出場した著名なアスリートだったのです[i]。
たった半年ほどでしたが一つ屋根の下、日中はともに講義を受け、夕方には古代遺跡群の方面にジョギングに行き、そして夜になると彼は毎晩のように、20歳も年下の私に「自分史」を懇々と語ってくれました。特に、高校中退後のランニングとの出会い、初参加となったソウル大会での無念の途中棄権、引退後に自国のスポーツの発展を期してアカデミアの世界に飛び込んだことなど、彼の波瀾万丈なライフストーリーに私はいつも胸を熱くしていました。
留学生活も中盤に差し掛かったころ、私はある行為をきっかけにフセインに厳しく叱られました。期末試験が終わって仲間内でナイトクラブに出かけたときのこと、私は何の気なしにフセインを含む友人同士での「乾杯」の写真を撮って自分のFacebookに投稿したのですが、彼に言わせれば、それは全く配慮に欠けた行為であると。フセインは極めて敬虔なイスラム教徒でした。もちろんアルコール類には一切手を付けません。しかし、SNS上でタグ付けされればその写真はモルディブの知人にも共有されることになり、要らぬ誤解を生じさせかねない。このことをなぜ想像できないのか?との教えでした。
私は自らの無神経さを深く反省し、知り得る限りの英単語をもってお詫びしました。大学院留学を通して、著名な教授陣の講義の中で学び得たものも多くありますが、この「補講」はやはり特別なもので、世界がいかに「インターナショナル」になったとしても、いやだからこそ、それぞれの国や地域の風土、伝統に根ざした個々の文化とその価値を尊重することの大切さを身をもって教わりました。
さて、その学びは実のところ、現在の私の研究主題である戦前の日本人アスリート(特に陸上競技を中心に)の技術史研究にもつながっています。明治期に近代スポーツを受容した日本では、ともかくもまずは欧米選手の技術を「模倣・吸収」しようとするのですが、大正期から昭和初期にかけては、当時の言葉でいえば「日本的」でオリジナルな技術の「開拓・萌芽」の時代がやってきます。例えばクラウチングスタートを「蹲踞(そんきょ)」の姿勢に準えてみたり、ランニングシューズに伝統的な地下足袋を使ってみたり、この時代のアスリートの創意工夫には、おそらく日本人が近世以前から大切に育んできた身体運動文化がより色濃く反映されていたものと思われます。
結びに、こちらはモルディブではなく日本初のオリンピック選手、金栗四三の言葉を引用します。氏は1912年ストックホルム大会のマラソン競技で無念の途中離脱となったのちに、将来の日本の競技力向上について以下のように論じています。
我日本人は、体格に於てどうしても彼等、西洋人には及ばない、少くとも吾人の代では及ばない、(中略)彼等の練習方法より以上のを工夫研究して、所謂日本人に最適したものを案出せねばならない[ii]
いまやインターネットを使えば簡単に世界中のトップアスリートの最先端の技術を知ることができますが、一方では当時、スポーツそのものに関する知識も経験も乏しい状況下で、いわば丸腰で世界の舞台に打って出た歴史上のアスリートの言葉にも、再考の価値があるかもしれません。これからも、フセインや金栗のような第一人者の声に耳を傾けながら、その時代と場所の特色ある身体運動文化を探求すべく、研究を進めていきたいと思います。
[i] https://olympics.com/en/news/hussein-haleem-the-games-changed-my-life
[ii] 金栗四三・明石和衛(1916)ランニング.菊屋出版部,pp.3-4.≈